「喜びの詩」   第47号 2008年9月22日

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目次

□ 世界の成り立ちについて
□ 人のありようについて
□ 生きることについて
□ 自分の生を、より大きな喜びにすることについて
□ 他者との関わりを、より大きな喜びにすることについて
□ 社会との関わりを、より大きな喜びにすることについて
■ いくつかのものごとについて
   ○ 循環
   ○ 展開のかたち 再び
   ● 物質 (○前半/●後半)
   ○ 知を活かすこと
   ○ 相似のたとえ

(本号に掲載するもの:■●)
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物質と意識の成り立ちについて、まず二つの考え方がありうる。それは、
これらが「全く別々の実在」だとする考え方と、
どちらか「一方のみが実在」だとする考え方。

生物の体と意識が連動するには、物質と意識の間に、何らかの共通するものが必要になる。
「全く別々の実在」なら、そこに共通するものがなく、連動することの説明ができない。
「一方のみが実在」なら、共通する実在によって、連動することの説明ができる。

「一方のみが実在」だとすれば、そこに二つの考え方がありうる。それは、
「物質のみが実在」で、意識はそこから生み出された、見せかけの影だとする考え方と、
「意識のみが実在」で、物質はそこから生み出された、見せかけの影だとする考え方。

「物質のみが実在」なら、物質がどうやって意識をつくり出すかは、説明し難い。
「意識のみが実在」なら、意識がどうやって物質をつくり出すかは、説明できる。

意識は主体で、物質は対象。
主体が、対象を、認識上に生み出す仕組みは、考えられる。しかし、
対象が、主体を、どうやって生み出すかは、考えようがない。

結局、意識は、何かによってつくり出せるものではない。
つまり、その起源は、もともとある意識に求める他はないもの。

物質を高度に組み上げれば、情報を入出力する装置はつくりうる。
しかし、それをどんなに高度にしても、意識とは呼べない。
意識は単に情報を入出力する装置でなく、「自覚」があるもの。
情報を入出力する手回し計算機に、自覚がないとすれば、
それをどんなに高度にした自動機械にも、やはり自覚はない。

人々の願う思いによって、石仏に意識が「宿る」ことはありえても、
物質的手段の積み重ねによって、自動機械に意識が「宿る」ことはありえない。
物質に意識が「宿る」とは、物質をかたちづくる情報に沿って、意識が動くということ。
それを主体的になしうるのは、意識のみ。情報自身には、それはなしようのないこと。

ただ、意識の存在、つまり自覚の存在は、他者に客観的に証明できるものではない。
「私には自覚がある」ということを、どんな手段で表現しても、
それは情報の出力でしかなく、そこから自覚の有無は断定できない。
自覚の存在は、まさに自分の意識の自覚によってしか見いだせない。
意識に関することは、最終的に、他者に説得しうるものでなく、自分で納得する他ないもの。

「意識のみが実在」だとする考え方にも、説明できないことがある。
それは、「もともとの意識」がなぜ存在したのか。
この一点は、理由のないまま認めるしかない。

「物質のみが実在」だとする考え方にも、説明できないことがある。
もともと、物質の世界がなぜ存在したのか。
加えて、意識がなぜ存在するのか。
全てが均等な乱雑さへ向かうべきところに、なぜ構築的な生物が生まれたのか。
意識の思いが、なぜ物質上に実現しうるのか。
物理を超えた「逸脱現象」が、なぜ起こりうるのか。
こうしたいくつもの点を、理由のないまま認めるしかない。

物質は、それ自身の構造によって、自動的に、ある程度構築的な組織もつくりうる。
それは生物の体の部品になりうるもの。
しかし生物には、そうした内容を超える、高度な全体像としてのつくりがある。
その超えている分のつくりがどこから来たのか、その答えを物質に求めることはできない。

意識の思ったことが、物質の現象として実現するとすれば、
それは、脳の微細な動きが、物質の世界を揺り動かすということではなく、
脳も含めた物質の世界の全体が、情報として、意識の動きを反映するということ。

単に法則から生まれた存在は、法則からは逸脱しえない。
法則を超えた自由がもともとあってこそ、逸脱することが起こりうる。
人が関わって起きる「逸脱現象」は、意識のもともとの自由さが、こぼれ出た痕跡と言える。

あくまで物質のみが実在で、全てが偶然から始まり、そこに物理の必然が連なって、
この世界ができたと見るとき、最大の不可解として残るのが、自分の意識が存在すること。
そこには、偶然とも必然とも異質な、自由な主体性というものが、確かに含まれるゆえ。

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物質の世界が、もし情報の表現だったとしても、
この世界に対する態度について、変えるべき点はほとんどない。
物や環境を大切にすべきことに変わりはなく、
物質を探求する科学の価値にも変わりはない。
物質を軽んじるべきところは何もない。

物質は、実在と感じられるように設計され、表現されたもの。だとすれば、
物質が情報の表現だということを、仕組みとしてわかっていても、実感する必要はない。
また、それができないように、認識の「鋳型」はつくられている。

つまり日常的には、
物質は、ありありとした実在として味わうべきもので、
また、そう味わう他ないもの。
物質の世界は、どこまでも精緻な表現ができる、完備された舞台として味わうべきもので、
また、そう味わう他ないもの。

普段、太陽を動くものとして捉えるのが当然であるように、
普段、物質を実在として捉えるのは当然のこと。
ただ、視点をどこに置くかで、何が正しいかは変わりうる。
筋の通った全体像を見ようとすれば、時に非日常の視点が必要になりうる。
そして、そこでの知見は、時に日常にも役に立ちうる。

睡夢の中で苦しみに出会っても、それが現実でなく睡夢だと気づけば、
もはや何者からも、本当に害されることはなくなるように、
物質の世界の中で苦しみに出会っても、それが実在でなく情報の表現だと気づけば、
もはや何者からも、本当に害されることはなくなる。
これは非日常の知見が、日常に役に立つことの一つ。つまり喜びをもたらすことの一つ。

一方、物質の世界の中で喜びに出会うとき、それを素直に実在として味わえば、
喜びは大きく膨らむことになる。
ありありとした表現とは、まさにそこに意義があるもの。



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 あとがき
ここでは、物質が先か、意識が先か、ということを考察しました。
「意識というものは幻影で、自由の感覚も、主体性も幻影だ」という考え方もあるでしょう。
つまり自由というものは存在せず、真の主体というものも存在せず、
全ては客体として機械的に、必然的に動いているだけだ、と。
しかし全ての機械仕掛けの生物が、わざわざその幻影をつくりだす機構をもち、
その幻影の中に生まれる喜びというものに突き動かされるように活動している、
という構図は、どうにも不自然なように思われます。
逆に、意識が、「リアルな物質」という幻影を生み出しているとすれば、
意図してつくったその幻影は、どこまでもリアルなはずで、そこに唯物論が成り立ちうる
ということこそが、そのリアルさの成功を示すものだとも捉えられます。
ただ、いずれの考え方をとるにしても、結局は与えられた場で喜んで活動することが、
生物に許された道であることに、変わりはないことになります。
次号のテーマは、「知を活かすこと」です。
 それではまた。
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発行者 哲楽人  週2回発行(月曜・金曜)
バックナンバー掲載サイト http://www.yorokobi.info

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