「喜びの詩」   第39号 2008年8月25日

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目次

□ 世界の成り立ちについて
□ 人のありようについて
□ 生きることについて
□ 自分の生を、より大きな喜びにすることについて
□ 他者との関わりを、より大きな喜びにすることについて
■ 社会との関わりを、より大きな喜びにすることについて
   ○ 社会
   ○ 教えと道徳
   ● 集団 (○前半/●後半)
   ○ 知ることの必要
   ○ 社会での価値観、世界観
□ いくつかのものごとについて

(本号に掲載するもの:■●)
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集団が体験する苦しみの内、最大のものが戦争。
戦争とは、人の生を犠牲にして、集団同士が負かし合うこと。
そこで個人は、集団として争うという方針のもと、多くの負担を強いられる。
たとえば、様々な苦しみを強いられたり、他者の生を奪うことを強いられたり、
他の集団から、苦しめられたり、生を奪われたりする。

戦争という事態は、そもそも、
敗北感や疑心といった、悲しみや恐れが発端になり、
それが気力の高まりによって、破壊的な怒りに変化し、
その思いが多くの人に共有されて、束になって具現化へと傾き出し、
指導者がそれなりに正義を守ろうと判断する中で、開始する方針が決まり、
集団がその方針に従う中で、末端に犠牲的な役割や、時に非道な役割がつくられ、
ごくふつうの人々が命令に従って、その役割を従順に果たすことで、現実に成り立つ。

戦いの場で、人は、見知らぬ他者の生を奪ったり、自分の生を犠牲にしたりする。
恨みや憎しみがないときに、人をそこまでの行いに駆り立てるものは、限られる。
一つは、その行いが、より多くの人の、より大きな喜びを守るものだと見なす、正義感。
一つは、その行いが、自分を超えた存在の、望みに沿うものだと見なす、信仰心。
一つは、その行いが、潔さを貫くための、残された道だと見なす、美意識。
これらの見方が鼓舞される時、自分を律する力は強まり、戦う力は高められる。
逆に、これらの見方が揺らぐ時、自分を律する力は弱まり、戦う力は失われる。

戦争も、大局的に見れば、正義や喜びを守るという面が成り立ちうる。
しかし、局所的に見れば、非道な苦しみの面が圧倒的に多く現れる。
つまり、戦争において、その方針は常に誤りを含む。
誤りに至る原因は、主に集団の「能力」の面にある。

原因の一つは、集団の判断力の「不完全さ」。
それは直接的には、集団の方針を決める、指導者の判断の誤り、つまり、
戦争に踏み切った誤り、または、踏み切らざるをえない状況に至らしめた誤り。
それはひいては、その指導者に方針を任せた、集団の一人一人の判断の誤り、または、
その指導者以上の判断力を誰ももちえなかったという、一人一人の判断力の限界に行き着く。

原因のもう一つは、集団の一体性の「不完全さ」。
一人一人が、非道な考えをもっていなくとも、
少しずつの無責任さをもって、集団の方針を黙認し、それに従い、役割を担うことで、
間接的な力が積み重なり、結果的に、誰も望まないような非道な行いが生み落とされる。

集団の判断力を特に損なうものが、負の感情の暴走。
個人においても大きなこの問題が、集団化することで、より大きな問題を引き起こす。
一人一人が感情を制御できないことで、集団的に煽動されることにもなる。
個々の思いは小さくとも、同じ方向で束になることで、具現化を強く押し進めることにもなる。

また、戦争では、他の集団に苦しめられる。
そこに至る原因は、主に集団の「人格」の面にある。
集団が受ける喜びと苦しみの総合は、やはり、集団が他に与えるそれらの総合と一致してくる。

結局、集団にとっての出来事も、
その思いと行いが原因を成すもので、その能力と人格を映すもの。

集団にとって、苦しみの出来事を予防する方法とは、
その原因になる、負の思いや行いをもたないこと。
自分の集団や他の集団に、より大きな喜びをもたらすような、
正の思いを束にしていき、正の行いを誤らずにしていくこと。
そこには自ずと、集団としての成長と善行が伴う。つまり、能力と人格の向上が伴う。
こうして、負の原因をつくらないだけでなく、進んで正の原因をつくることで、
過去の原因による負の結果も、未然に打ち消せるようになる。

多くの苦しみを伴う戦争は、人が集団を成したゆえに生じたもの。
しかしそれは、集団を成したそもそもの目的に、まるで反しているもの。
結局それは、集団が喜びへ向かうつもりで、苦しみを選ぶ自由を行使してしまった悲劇。
ただ、どんな悲劇も、永久に救われないことはない。
多くの死があっても、それは絶対の悲劇ではない。
つまるところ、やがて死なない肉体はなく、
つまるところ、意識はずっと生き続ける。
そして、生という体験の喜びを、無限に積み重ねていく中では、打ち消されない苦しみもない。

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社会には様々な集団が存在し、時に集団的な対立も存在する。
しかし大きくは、人々はただ二つの方向に分けられる。それは、
自分と違った点をもつ他者を、否定していこうとする人々と、肯定していこうとする人々。

前者をつきつめれば、他者との違いが強調され、集団は細分化し、個人の対立に行き着く。
後者をつきつめれば、他者との違いが許容され、集団は一体化し、全体の融合に行き着く。
いずれにしても、つきつめれば、集団的対立というものは成り立たない。
全ての人は結局、「個体の個性」の上では相違し、
全ての人は結局、命をもつという点では共通する。
自分の属する確かな集団と、それに対立する確かな集団があるという構図は、
想定によって成り立つもので、つまるところ仮想のもの。
自分との違いにこだわれば、集団は自分一人になり、
自分との違いにこだわらなければ、集団の境界は際限なく溶け出す。
違いにどこまでこだわるかによって、味方が敵になり、敵が味方に変わる。
集団的な対立とは、その不確かな移ろいの中の、一断面として成り立つにすぎないもの。

生というありありとした体験は、喜びを主題にしたもの。
そして、「集団同士の関係」も、その体験の内の一つ。
だとすれば、ここに一つの姿勢が成り立つ。

「喜びを与え合う、集団同士の正の関係については、
 そのままのありように目を向けて、それを実在として味わい、
 苦しみを与え合う、集団同士の負の関係については、
 もともとのありように目を向けて、それを情報の表現とふまえる」

これは、積極的に主題に沿って、ものごとをを捉えていく姿勢。
つまり、進んで喜びを最大化し、進んで苦しみを最小化しようとする姿勢。

この姿勢のもとでは、負の関係を、そのままのありようにおいては捉えない。
少なくとも、集団同士の関係は、その時々の個人の演じ分けによって成り立つ、情報の表現。
そして集団は、つきつめれば、全くの個人か、ただ一つの集団に行き着き、
全ての個人は、つきつめれば、同じ「もともとの意識」が「演じ」たもの。
つまり、一つの主体が実在するのみで、全ての集団は、もともと一体のもの。
ここに立って、負の関係を捉え直すことになる。

ここでは、集団同士が負の関係にあるくらいなら、
それらはもともとの一体の姿である方がよいことになる。つまり、
負の関係にあるなら、集団が別々であることに意義はない。
正の関係にあってこそ、集団が別々であることに意義が生まれる。
つまり、集団が個別の存在である以上は、そのあるべき姿は、正の関係。
家族や、国や、仕事上の組織など、あらゆる集団にこれはあてはまる。

集団同士の負の関係とは、たとえば、害を与え合う関係。
集団同士の正の関係とは、たとえば、能力を競い合い、過去の負の関係を謝り、許し合い、
個性を認め合い、恵みに感謝し合い、相手の立場に立って助け合う関係。

演劇の中で、敵と味方によって、どんな負の関係が演じられても、
演劇が終わって役を離れれば、演者たちはみな一つになって、笑顔のもとで挨拶をする。
これはちょうど、次のことに相似している。
この世界の中で、様々な集団によって、どんな負の関係が演じられても、
あらゆる表現の枠組みを離れれば、そこにある主体はただ一つで、それは喜びに基づく存在。
演劇の終わりの情景に、人が何らかの感動を覚えるのも、もっともなこと。



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 あとがき
ここでは、一旦情緒を排して、戦争というものの根本の成り立ちを考察し、
また、集団的対立というものの本質について考察しました。
次号では、社会の中での、「知る」ということの位置付けについて考えます。
 それではまた。
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発行者 哲楽人  週2回発行(月曜・金曜)
バックナンバー掲載サイト http://www.yorokobi.info

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