「喜びの詩」   第37号 2008年8月18日

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目次

□ 世界の成り立ちについて
□ 人のありようについて
□ 生きることについて
□ 自分の生を、より大きな喜びにすることについて
□ 他者との関わりを、より大きな喜びにすることについて
■ 社会との関わりを、より大きな喜びにすることについて
   ○ 社会
   ● 教えと道徳 (○前半/●後半)
   ○ 集団
   ○ 知ることの必要
   ○ 社会での価値観、世界観
□ いくつかのものごとについて

(本号に掲載するもの:■●)
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人が社会を成すとき、他者を苦しめる悪行は、人の手で抑止されるようになる。

悪行をすべきでないという認識は、本来は自然に生じるもの。
他者に影響を与えれば、「収支平衡作用」によって、いずれ同じ影響が返ってくる。
意識の上で自分が拡張すれば、他者が被る影響を、自分のこととして捉えるようになる。
よって、自分が喜びを望む以上、他者を苦しめるべきでないという認識は、いずれ生じる。
しかし、それにかかる時間は人それぞれゆえ、教えや道徳が、それを補佐することになる。

悪行をすれば、当人も、苦しみの道に踏み込むことになる。
それがわかり切っているゆえ、教えは、それを避ける道を示す。
しかし当人が、苦しい道をたどることを納得の上、悪行を試すことを望むなら、
当人のためにある教えは、それを禁じきれなくなる。

悪行をすれば、相手とその周りの人々を、苦しめることになる。
それがわかり切っているゆえ、道徳は、それをしないことを求める。
たとえ当人が、自ら犠牲を払って望んだとしても、それで他の人々が苦しむ以上、
より多くの人のためにある道徳は、それを禁じる根拠をもつ。

道徳は、より多くの人の立場を代弁するもの。
道徳が求めるとは、つまるところ、社会の一人一人が求めることにあたる。
もし当人が、「なぜ悪行をしてはいけないか」と問うなら、その答えは、
「悪行は、それを受ける相手にとって苦しみであり、
 相手に関係する人々にとって苦しみであり、
 つまるところ、社会の一人一人にとって苦しみであり、
 私にとって苦しみであるから、しないことを求める」ということになる。
社会の一人一人が求めるゆえ、
時にそれを、法律というかたちで強制的に禁じることも、妥当になる。また、
時に刑罰というかたちで、人の手で「収支平衡作用」を執り行うことも、許容される。

それでも人は、教えや道徳や法律に反して、悪行をすることがある。
それらがもともと、人の喜びのために用意されたものにもかかわらず、
それらから逃れることで、喜びが得られると判断してしまうことがある。
確かに人は、人の手による枠組みからは逃れうるかもしれない。
しかし人は、「因果作用」の枠組みからは逃れられない。
結局は、他者を苦しめる悪行が放置されることはない。

他者を苦しめることが、社会で肯定される場合もある。それは、
そうしないと、相手によって、自分がそれ以上に苦しめられる場合と、
そうしないと、より多くの人に、より大きな苦しみがもたらされる場合。
つまり、より大きな喜びを守るために、他に方法がなく、それが避けられない場合。
ここでは、相手を苦しめることにはなっても、それを行なった自分に対し、
最終的にもたらされる結果は、総合して負の方向にはならない。

しかし、社会も「完全な」ものではない。
より大きな喜びを守るために、誰かを苦しめることが必ずしも必要でないのに、
社会がそれを求めることがありうる。
ここでは、他者を苦しめることが社会で肯定されても、それを行なった自分に対し、
最終的にもたらされる結果は、総合して負の方向にもなりうる。

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人が社会を成すとき、他者の生を奪う行いは、人の手で抑止されるようになる。

他者の生を奪うべきでないという認識は、本来は自然に生じるもの。
他者に影響を与えれば、「収支平衡作用」によって、いずれ同じ影響が返ってくる。
意識の上で自分が拡張すれば、他者が被る影響を、自分のこととして捉えるようになる。
よって、自分が生を望む以上、他者の生を奪うべきでないという認識は、いずれ生じる。
しかし、それにかかる時間は人それぞれゆえ、教えや道徳が、それを補佐することになる。

他者の生を奪うことは、その生の喜びを根こそぎ奪うことであり、
通常、他者を苦しめる最大の行い。

最大の悪行をすれば、自分にも、相応の苦しみが返ってくることになる。
それがわかり切っているゆえ、教えは、それを避ける道を示す。
しかし当人がそれでも望めば、当人のためにある教えは、それを禁じきれなくなる。

最大の悪行をすれば、相手とその周りの人々を、相応に苦しめることになる。
それがわかり切っているゆえ、道徳は、それをしないことを求める。
たとえ当人が望んでも、より多くの人のためにある道徳は、それを禁じる根拠をもつ。
厳罰を与えるという法律のかたちで、それを禁じることにもなる。

他者の生を奪うことが、社会で肯定される場合もある。それは、
そうしないと、相手によって、自分の生が奪われる場合と、
そうしないと、より多くの人に、より大きな苦しみがもたらされる場合。
つまり、より大きな喜びを守るために、他に方法がなく、それが避けられない場合。
ここでは、相手の生を奪うことにはなっても、それを行なった自分に対し、
最終的にもたらされる結果は、総合して負の方向にはならない。

しかし、社会も「完全な」ものではない。
より大きな喜びを守るために、誰かの生を奪うことが必ずしも必要でないのに、
社会がそれを求めることがありうる。
ここでは、他者の生を奪うことが社会で肯定されても、それを行なった自分に対し、
最終的にもたらされる結果は、総合して負の方向にもなりうる。

避けられずに、誰かの生が奪われたなら、
その分、残った人々の生を、意義あるものにすることが、道徳として求められる。
それは、「もともとの意識」が、全ての役を「演じ」ているという構図において、
ある役がなくなったことで失われた喜びを、残った役が埋め合わせることにあたる。

自分が生きるために、他の生物の生を奪い、食すことも、避けられないこと。
その生に感謝し、その生の分も、自分の生を意義あるものにすることが、
より広い道徳として求められる。

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人が社会を成すとき、自分の生を奪う行いは、人の手で抑止されるようになる。

自分の生を奪うことは、その生の喜びを根こそぎ奪うことであり、
通常、自分を苦しめる最大の行い。
それがわかり切っているゆえ、教えは、それを避ける道を示す。
しかし当人がそれでも望めば、当人のためにある教えは、それを禁じきれなくなる。

自分の生を奪えば、自分の周りの人々を、相応に苦しめることになる。
それがわかり切っているゆえ、道徳は、それをしないことを求める。
たとえ当人が望んでも、より多くの人のためにある道徳は、それを禁じる根拠をもつ。
しかし、事後に罰を与えるという法律のかたちでは、もはやそれを禁じることはできない。

自分の生を奪うことは、往々にして、苦しみから楽になりたいという思いから来る。
それは、本来解消しうる苦しみを、過大な位置づけのもとに捉えている状態。
自分の生を奪えば、確かに、自ら描いた悪夢からは覚めうる。
しかし同時に、生が壮大な「遊び」だったということを、知ることにもなりうる。
その生が成り立つために、どれだけの他者が関わり、どれだけのものごとが調整されたか、
その生が、どれだけかけがえのない体験だったかを、知ることにもなりうる。

そこでは、楽になったという思いよりも、後悔の思いが勝る。
つまり、苦しみから楽になるという当初の目的は、新たな苦しみによって達されなくなる。
目的を達しえないことがわかっていれば、それはするだけおよそ無駄なこと。
苦しみから楽になるためには、苦しみを解消するしかない。
そうして大きな喜びを味わうことでのみ、当初の目的は達される。

人は常に、より喜びが大きいと考えられる方へ動くもの。
しかし、その判断が時に誤るゆえに、逆に苦しみを得てしまう。
自分の生を奪うことが、より喜びが大きいと考えるのは、通常、最大の誤り。
そもそも、生という表現は、喜びのためにつくられたもの。
生を否定すれば、結局、喜びも否定することになる。

自分の生を奪うことが、社会で肯定される場合もある。それは、
そうしないと、より多くの他者に、より大きな苦しみがもたらされる場合。
つまり、より大きな喜びを守るために、他に方法がなく、それが避けられない場合。
ここでは、自分の生を奪うことになっても、後悔が勝ることはない。
その行いはある意味、自分をより生かすことになる。

つまるところ、死は肉体にあるのみ。意識に死はなく、その生は続いていく。
とすれば、肉体が極度に損われ、そこに生の喜びが全く成り立たない状況になったとき、
意識の生の喜びのために、肉体の死を選ぶということも肯定しうる。
ただ、本当にそうした状況になったかどうかは、容易に判断し難いもの。
ぎりぎりの状態でも、生を「味わう」面での成長は、可能であったりするもの。

どんな複雑な状況下でも、
自分が社会の中でどう動くべきか、判断するよりどころは変わらない。
それは、自分を含む、より多くの人の喜びを、総合的に最大化することに尽きる。



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 あとがき
ここでは、社会における、悪行、殺生、自殺、安楽死などについて考察しました。
「価値あるもの」とは結局、「何らかの喜びを生むもの」で、
「価値」というものをつきつめれば、結局「喜び」に行き着くしかない──
とすると、他者や自分の生を奪ってはいけないということの根拠も、
やはり「喜び」で計られる他ない、ということになります。
試験飛行していた飛行機が、市街地で墜落を始めたとき、操縦士は脱出するという道を捨て、
市街地をよけるまで操縦桿を握り続けて亡くなった、というような話がありましたが、
これは、より多くの人の喜びを守るために、避け難く行なった自害というものの例でしょう。
次号では、集団というものについて考察します。
 それではまた。
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発行者 哲楽人  週2回発行(月曜・金曜)
バックナンバー掲載サイト http://www.yorokobi.info

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