「喜びの詩」 第36号 2008年8月15日
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目次
□ 世界の成り立ちについて
□ 人のありようについて
□ 生きることについて
□ 自分の生を、より大きな喜びにすることについて
□ 他者との関わりを、より大きな喜びにすることについて
■ 社会との関わりを、より大きな喜びにすることについて
○ 社会
● 教えと道徳 (●前半/○後半)
○ 集団
○ 知ることの必要
○ 社会での価値観、世界観
□ いくつかのものごとについて
(本号に掲載するもの:■●)
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─────── 教えと道徳
本来、人の手による教えというものは、
生にとって、絶対に必要なものではない。
様々な教えが、初めから人に組み込まれていないのは、それがなくても、
喜びへ向かう資質と、可能性を拓く資質、そして「因果作用」という仕組みがあれば、
生というものの目的が果たせることを示す。つまり、
試行錯誤の時間はかかっても、より大きな喜びを体験していけることを示す。
実際、人は試行錯誤をして、回り道をたどりながらも、
次第に原因と結果の関係を学び、いずれ、喜びへの近道を知るようになる。
ただ、人はそれにとどまらず、その近道を、他者に伝えるようにもなる。
他者が同じ試行錯誤を繰り返さず、苦しみの迷い道をたどらずに済むように。
そこに、教えというものが成り立つ。
つまり、教えの位置づけとは、
相手が苦しみを未然に避けて、
より早く、より大きな喜びを体験しうるように、補佐するもの。
人の手による複雑な社会の中で、人が生きるようになると、教えの役割は増してくる。
そこでは、苦しみの迷い道が、より複雑なものになりうる。
限られた時間で、個人が試行錯誤するだけでは、喜びの道を見いだし難くなりうる。
それを同じく人の手によって防ぐために、教えは、もはや必要なものになってくる。
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本来、人の手による道徳というものは、
社会的な生にとって、絶対に必要なものではない。
様々な道徳が、初めから人に組み込まれていないのは、それがなくても、
喜びへ向かう資質と、可能性を拓く資質、そして自然に生じる愛があれば、
社会的な生というものの目的が果たせることを示す。つまり、
試行錯誤の時間はかかっても、より多くの人が、より大きな喜びを体験していけることを示す。
実際、人は試行錯誤をして、
他者の苦しみを顧みずに、自分一人の喜びを求めたりしながらも、
次第に自分を拡張させ、いずれ、より多くの他者の喜びを望むようになる。
ただ、人はそれにとどまらず、より多くの人を喜ばすことを、他者に求めるようにもなる。
他者が同じ試行錯誤を繰り返さず、より多くの人が苦しまずに済むように。
そこに、道徳というものが成り立つ。
つまり、道徳の位置づけとは、
より多くの人に、苦しみがもたらされるのを未然に防ぎ、
より早く、より大きな喜びがもたらされるように、補佐するもの。
人の手による緊密な社会の中で、人が生きるようになると、道徳の役割は増してくる。
そこでは、他者に与えた苦しみが、その周りの人に広く及ぶことになりうる。
個人の自由な試行錯誤を放置すれば、より多くの人が苦しむことになりうる。
それを同じく人の手によって防ぐために、道徳は、もはや必要なものになってくる。
さらに、道徳の内、最低限の内容は、
強制的な決まりとして、社会の中で共有されることにもなる。
それが法律というものにあたる。
社会の中では、人に対し、教えが授けられ、道徳が要請されることになる。
教えは、当人の成長を助けるもので、当人のためのもの。
道徳は、当人の善行を促すもので、より多くの他者のためのもの。
当人の喜びと、より多くの他者の喜びは、最終的に合致するゆえ、
教えと道徳も、つきつめれば、分けられない一体のものになる。
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道徳的な行いを、自然になしうる人とは、
他者全般に対して愛をもっている人。
それは、能力と人格が相応に高まっている人。
しかし、社会の中では、全ての人に道徳が求められる。
つまり、能力や人格が未成熟なままでも、道徳が求められる。
道徳的な行いは、自然になす以前に、自分を律してなすべきものになる。
道徳的な行いを、自分を律してなしうる人とは、
正義感のある人か、信仰心のある人か、美意識のある人。
正義感による道徳は、自分が自分に打ち勝つことで成り立つ。
信仰心による道徳は、自分より上位の存在に従うことで成り立つ。
美意識による道徳は、醜い行いに耐えられないという自分の都合で成り立つ。
前者ほど、自分を律する、強い力を要するもの。
しかし、行われる結果は、どれも同じでありうる。
つまり、後者ほど、力を要さずに同じことができる分、方法としては優れたもの。
道徳的な行いをするために、正義感を育むのは大切なこと。
それは道徳の価値を理解し、自分で自分を律する、直接的な方法。
しかしそれは、自然な愛の発露によるものでない以上、いわば背伸びをした状態。
自分で自分を律し続けるのは、他の助けがない分、時にもろさを含みうる。
道徳的な行いを、広く誰もがするためには、信仰心や美意識を育むことが有効になる。
信仰心によれば、神という上位の他者によって、自分を律しうる。
美意識によれば、利己的な衝動からも、結果的に自分を律しうる。
一度、固い信仰をもったり、行いの美しさを知ったりすれば、
それらを捨てることは難しく、より確かに自分を律していけるようになる。
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教えや道徳が、特に必要になるのは、人が中庸を外れ、特定の方向に偏っているとき。
その人を、反対の方向へ向かわせるために、
教えや道徳は、中庸を越えて、反対の方向に偏ったものになりやすい。
その偏りが大きいほど、その人への効果は大きくなる。しかし、
その他の人や、すでに反対の方向に偏っている人には、必ずしも有効でなくなる。
その教えや道徳は、強い効果はあっても、万能ではないもの、つまり「方便」になる。
「方便」は、薬にたとえられる。
薬は、毒をもって負の原因を制し、健康をもたらそうとするもの。
毒性を含むゆえ、特定の症状によく効く反面、万能でなく、副作用の害もあるもの。
薬が、その効果を高めるために、あえて強い毒を含むように、
「方便」は、人を道理に導くために、あえて強い負の内容を語ったり、
全くの逆説を述べたり、時々に矛盾することを述べたりする。
薬が、特定の症状を離れて用いるべきものではないように、
「方便」は、その文脈から切り離して意味をとるべきものではない。
薬が、不特定の人や、症状の回復した人にとっては、むしろ毒になりうるように、
「方便」は、適用する人により、また時により、むしろ苦しみもたらすものになりうる。
もし「方便」を万事に応用しようとするなら、
その表現のかたちを超えた、奥の真意を取り出す必要がある。
「方便」は、いわば「偽」を通して「真」を伝えようとするもの。
かたちの上で「偽」を含んでも、その真意は「真」であるもの。
それを全くの「偽」と見なせば、真意を拒絶することになる。
それを全くの「真」と見なせば、真意を誤解することになる。
宗教は、往々にして「方便」的なもの。ゆえに人は、
その「偽」の面を見て、宗教を頭から否定したり、
その「真」の面を見て、宗教を頭から盲信したりしうる。
しかしこれらは、宗教の真意を拒絶したり、誤解したりしている状態。
宗教を否定する人は、その真意が「真」であることを認め、
宗教を盲信する人は、その表現が「偽」を含むことを認めることで、
有用な真意のみを取り出し、応用できるようになる。
ものごとを、正しく、余すところなく説明しようとすれば、膨大な言葉を要する。
それを限られた言葉で語れば、そこにはいくらかの「偽」が含まれてくる。
つまり、どんな言葉の表現も、いくらかの「方便」性を含むもの。
言葉の受け手が、表現の限界をふまえて、真意を汲みとろうとすることでのみ、
言葉は有用なものとして成り立ちうる。
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あとがき
伝統的に、西洋では宗教、日本では美意識が、道徳教育を担ったのではないでしょうか。
そして後者は、江戸時代の民度の高さに表れているように、大衆への浸透という点で、
より優れていたと思われます。
「善人ぶるのはまっぴらでも、汚いことはしたくないし、捨て置けない」
こうした粋で潔癖的な志向は、教条でなく、文化として根づくことができたのでしょう。
人が見ていないところでも、ルールを守ったり誠意を込めるという倫理性において、
日本人は世界の中でまだ高い方だとすれば、それはこうした文化的な背景にもよると思います。
次号では、引き続き「教えと道徳」というテーマで、なぜ他人を殺してはいけないのか、
なぜ自殺をしてはいけないのか、といった問いについて考えます。
それではまた。
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発行者 哲楽人 週2回発行(月曜・金曜)
バックナンバー掲載サイト http://www.yorokobi.info
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