「喜びの詩」 第35号 2008年8月11日
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目次
□ 世界の成り立ちについて
□ 人のありようについて
□ 生きることについて
□ 自分の生を、より大きな喜びにすることについて
□ 他者との関わりを、より大きな喜びにすることについて
■ 社会との関わりを、より大きな喜びにすることについて
● 社会
○ 教えと道徳
○ 集団
○ 知ることの必要
○ 社会での価値観、世界観
□ いくつかのものごとについて
(本号に掲載するもの:■●)
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─────── 社会
社会とは、複数の個人や集団が、何らかの関係をもって集まったもの。
社会を動かす力とは、それぞれの人が、
自分や、他者や、拡張した自分にとっての、喜びを大きくしようとすること。
社会の動きがどんなに複雑に見えても、その根底にある動機は単純なもの。
社会の向かうべきあり方とは、
少数の人だけが、より大きな喜びをもつことではなく、
より多くの人が、より大きな喜びをもつこと。
これは、
全ての人を「演じ」る「もともとの意識」にとっての、喜びを最大化することにあたる。
また、全ての人を愛し、一人一人の喜びを望む神にとっての、望みを叶えることにあたる。
また、意識が「目覚め」るにつれ、社会全体へ拡張する自分にとっての、大きな喜びにあたる。
これらは結局、同じことを別の角度から捉えたもの。
そしてこれらが、社会の向かうべきあり方の根拠になる。
もし、もともと一人一人が全く別な存在で、愛も生じず、自分の拡張もありえないなら、
こうした社会のあり方も、根拠を失う。
少数の人だけが、より大きな喜びをもつというあり方も、否定できなくなる。
しかし、現に愛は生じ、自分は拡張していくもの。
また、生というものは、進歩の展開と、多数の展開、その両立へと向かうもの。つまり、
より多くの人が、より大きな喜びをもつというあり方は、この展開にもかなったもの。
こうした、社会の向かうべきあり方を、人の行いに反映させようとするものが、道徳。
道徳の基本は、他者のことを自分のことに置き換えて考えること。
これも、自分と他者がもともと全く別な存在なら、そうすべき根拠は失われる。
「もともとの意識」、つまりもともとの自分が、他者を「演じ」ている、
最終的にこの視点に立つことで、他者を自分に置き換えて考えることに根拠が生まれる。
こうした道徳をふまえるとき、
社会において、自分が今何をすべきかを判断するよりどころは、
自分を含む、より多くの人の喜びを、質と量を含めて総合的に、最大化することに行き着く。
ここでは、自分のすることを選ぶにあたって、「喜びの計算」を、
自分だけでなく、複数の他者にあてはめて、いわば連立方程式を解くことになる。
何をし、どうすれば、自分が社会の中に生み出す喜びを、総合的に最大化できるか、
その正解は、人により、また時により異なってくる。
能力が充分でない内は、まず自分一人を喜ばせることが、正解になりうる。
成長に応じて、喜ばせる相手を少しずつ増やすことが、正解になりうる。
時に相手の数を絞って、一人一人をより喜ばせることが、正解になりうる。
時に「個としての自分」よりも、他者の喜びを優先することが、正解になりうる。
能力が高まれば、より多くの他者に、より大きな喜びをもたらすことが、正解になりうる。
しかし往々にして、自分がどう動くのが正解か、判断し難いこともある。
相反する立場の人が、複雑に関わる状況下では、
考慮すべき内容は、多岐にわたり、膨大になる。
それぞれの人への愛の強さが違っていれば、さらに判断は難しくなる。
その「落としどころ」には、理想的な正解があるとは限らない。
その答えが具体的なものである以上、むしろ「完全な」答えは存在しない。
どんな答えにも、いくらかの負の要素や、限定性が含まれるのは避けられない。
ゆえに、その時点での、自分の能力と人格をもって、
できる限り、人々の喜びの最大化を目指すことが、必要で充分なことになる。
社会における優れた指導者とは、
社会全体の喜びを最大化するには、今どうすべきかを、深く洞察できる人。
何を優先し、犠牲にするか、どちらが社会全体にとって、真に大きな喜びになるか、
それを選ぶ判断力に長けた人。
つまり、本当の意味で「喜びの計算」が確かで、誤りの少ない人。
それは、家族や、国や、仕事上の組織など、あらゆる集団にとって必要とされる人。
他者との一対一の関係では、
人が他者を負かそうとするのは、自分が勝利感を得るため。
それなしに他者を負かすことはない。
しかし、複数の他者が成す社会では、
当人は相手を負かしたくなくても、その他の他者の喜びのために、
泣く泣く相手を負かすということが起こりうる。
つまりその行いは、相手に敗北感を与えながら、自分に勝利感のないもの。
こうした、望まずに他者を苦しめるという行いは、自分が自分の立場だけで動けず、
その他の他者の立場を代表せざるをえないときに生まれる。
つまり、集団の中で、社会的役割を担うときに生まれる。
これは、社会というものにおいて生じる特有の状況。
特に、集団による戦争において、
個人的に望まなくとも、役割として、他者の生を奪わざるをえなくなるという苦しみは、
社会における特有の悲劇の典型として、古くから神話や物語に描かれてきたもの。
もしこの世界に、負の要素と限定性というものがないなら、こうした状況は避けられるはず。
弱肉強食という状況も、また同じく避けられるはず。
しかしこの世界が、ありありとした現実的なものである以上、「不完全さ」は付きまとう。
ゆえにこれらの状況は、人の社会に限らず、生態系にも避け難く現れる。
社会のこうした「不完全な」側面を、最終的に救いをもって見る視点は一つ。
それは、全ての生を、もともと一つの意識が「演じ」る、壮大な試みとして見る視点。
もちろん人の社会では、こうした側面の拡大を抑える努力が求められる。
人の社会は、時に多くの「不完全さ」を含みうる。
目の前に繰り広げられるその状況は、時に絶望を誘うものでありうる。
しかし、人が進歩しうる以上、社会も進歩しうるもの。
無限の進歩の全体として見れば、その表現もやはり「完全」の内にある。
この視点に立てば、社会がどんな状況でも、不屈の希望を見いだせる。
人は思いを変えることで、人生を劇的に変えうる。
同様に、多くの人が思いを変えることで、社会も劇的に変わりうる。
それは、たとえ地球規模のものごとでも同じ。
逆に、思いを変えずに変えられるものごとは、社会の中には一つもない。
一時的に、社会に苦しみや悪が拡大しても、人が喜びを求めるものである限り、
最終的に、喜びと善が、それらを上回っていく。
つまるところ、喜びへ向かう資質と、可能性を拓く資質を、人が失わない限り、
人というものも、社会の将来も、信じられるものであり続ける。
これらの資質は、一見何げないもののようでも、生の歴史というものを、
無限の喜びへと導き、「完全」へ至らしめる、確かな道しるべであることに変わりない。
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あとがき
ここでは、他者が複数化することで、これまでの理論がどう展開するかを考察しました。
たとえば、「泣いて馬謖を斬る」というような、
第三者の喜びを優先することで、自分と相手が共に「負け」となるパターン
も生まれてきます。
道徳というものの根拠についても考察していますが、その明確な答えは、
ある程度非日常的な視点にまで踏み込まなければ、得られないように思います。
次号では、道徳と教えというものについて、詳しく見ていきます。
それではまた。
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発行者 哲楽人 週2回発行(月曜・金曜)
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