「喜びの詩」   第30号 2008年7月25日

‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥
目次

□ 世界の成り立ちについて
□ 人のありようについて
□ 生きることについて
□ 自分の生を、より大きな喜びにすることについて
■ 他者との関わりを、より大きな喜びにすることについて
   ○ 他者との間の感情と体験
   ○ 悪と罪
   ● 勝利感と敗北感 (○前半/●後半)
   ○ 敗北感の解消
   ○ 他者への典型的な行い
□ 社会との関わりを、より大きな喜びにすることについて
□ いくつかのものごとについて

(本号に掲載するもの:■●)
‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥



─────

子供は、大人たちから、肯定され、感謝され、愛されることを望む。
そうされることで、子供は勝利感を得、個人としての基本的な自信を得る。
そこから、他者を肯定し、感謝し、愛することもできるようになる。
これは、人の健全な成長にとって欠かせないこと。

他者から、肯定され、感謝され、愛されることを望むのは、大人も同じ。
しかし、そうされるには、それなりの努力を要し、なかなか難しいこともある。ゆえに、
人は往々にして、その少ない体験を大切にしながら、勝利感の欠乏に耐えていく。たとえば、
一度だけほめられたことを、ずっと励みにし続けたり、
感謝の一言をもらうことだけを、ずっと目指し続けたり、
子供の時などに受けた愛情を、ずっと支えにし続けたりする。

しかし、勝利感の慢性的な欠乏が、限度を超えると、症状になって現れうる。
たとえば、何かにつけて、けなしたり、威張ったりする、
さらには、弱者をいじめたり、傷つけたりする。
つまり、他者を負かすという、手っとり早い方法で、勝利感を得ようとする。
普段、他者から、肯定され、感謝され、愛されていれば、こうした症状はなくなりうる。
これも、大人と子供に等しくあてはまること。

常に不満を述べたり、他者の不幸に喜びを感じたり、競技の観戦に過度に熱中したりするのも、
勝利感の欠乏を示す症状でありうる。ここでは、他者を負かすのでなく、
不満を述べることで、貯まっている敗北感を、少しずつ発散したり、
自分と不幸な他者とを、積極的に比べることで、勝利感を補充したり、
競技をする他者に、自分を投影することで、勝利感を得ようとしたりする。

肯定や、感謝や、愛を示すことは、他者を勝たすことであっても、自分が負けることではない。
しかし、勝利感が欠乏すると、それらの行いも、自分が負けることのように思えてくる。
自分が得られていない勝利感を、なぜ他者に与える必要があろうかと思えてくる。
それが高じると、誰にも一切勝利感を与えようとしない、いわば意地悪な姿勢がつくられうる。

この症状は、他者から勝利感をもらう機会をさらに遠ざけ、その欠乏を強めてしまう。
しかし本来、こうした時ほど、人は、肯定され、感謝され、愛されることを要する。
そうされて勝利感が満ちていけば、いずれ他者に、肯定や、感謝や、愛を返せるようになる。
そして、他者にこうした行いをすることが、自分の負けになることでなく、
むしろ他者から勝利感をもらう機会を増やすことだと、実感できるようになる。

勝利感の欠乏による症状は、自分で能力や人格を高めることでも、なくしていける。つまり、
他者から、肯定され、感謝され、愛されなくとも、自分の中に喜びを保てるようになり、
さらに自分から進んで、肯定や、感謝や、愛の行いを、他者に与えていけるようになる。

惜しみなく、肯定し合い、感謝し合い、愛し合えば、人は格段に喜びを大きくできる。
もし、周囲の人を、肯定し、感謝し、愛することができ、
また、自分のことを、肯定し、感謝し、愛してくれる人に囲まれたなら、
それ以上の他者との関係を描くことは難しい。

つまり、人がつくった社会であっても、いわば住みよい天国にすることは、全く可能と言える。
それを阻んでいるのは、他者から、肯定し、感謝し、愛してもらうまでは、
自分から他者を、肯定し、感謝し、愛しようとしないことの一点。
自分からしようとしない態度を、全ての人がとることで、
結局、誰からもしてもらえない状況がつくられる。
そして、その状況を非常な困難と見なすことで、問題が過大に位置づけられる。
他の誰でもない自分が、進んで、肯定や、感謝や、愛を示すことで、全てが変わりうる。
逆に、それなしに全体を変えうる方法はどこにもない。結局、それが唯一の方法にあたる。

─────

誇りとは、勝ちを保っていること。つまり比較の上で、喜びが大きい状態を保っていること。
恥とは、負けを呈していること。つまり比較の上で、喜びが小さい状態を呈していること。

誇りを何より尊重し、常に誇りを失わない生き方をする人は、
恥を何より忌み嫌い、常に恥ずかしくない生き方をしようとするもの。
いずれも、強い勝ち気の表れであり、常に他者との関係を見つめる表れ。
これらが、武士や騎士の生き方に通じるのは、もっともなこと。

こうした生き方を追求するとき、より深い解し方、考え方として、一つの美意識が生まれる。
そこでは、外見的な勝ち負けを超えた、より本当の勝ち負けを問題にすることになる。

たとえば、
ある負けを受け入れようとせず、勝ちの状態を取り繕うようなまねは、
むしろ自分の勝利感の欠乏を露にすること、つまり本当の負けを呈することであり、恥。
逆に、ある負けを平然と受け入れることは、
むしろ自分の勝利感の充実を示すこと、つまり本当の勝ちを保つことであり、誇り。
また、
弱い者を負かして勝利感を得るようなまねは、
むしろ自分の勝利感の欠乏を露にすること、つまり本当の負けを呈することであり、恥。
逆に、弱い者を助けて勝利感を与えることは、
むしろ自分の勝利感の充実を示すこと、つまり本当の勝ちを保つことであり、誇り。
そして、
恥ずべき行いは、汚く、醜いもので、
誇るべき行いは、潔く、美しいもの。

こうした美意識のもとで、醜さを耐え難く思い、あくまで美を求めることは、
結果的に、他者に喜びをもたらすことにもなる。つまり、道徳的にも優れることになる。

誇り高くふるまってきた人は、身近な人に対し、
肯定や、感謝や、愛を示すことを、時に恥ずかしく感じたりもする。
それは、相手に勝利感を与えることで、
間接的に自分が負けになるかのように、相手から見られるのではないかと思うゆえ。
しかし、自分の中の勝利感が本当に充実していれば、それは苦にならないはず。
ためらう思いを超えることの方が、本当の勝ちを保つことであり、潔いことに違いない。

─────

「他者」に対する「自分」とは、ふつう、ある個体としての自分を指す。
ただ、本当の自分とは何かをつきつめれば、それは、
個体を構成している、肉体でもなく、性格でもなく、これまでの体験の集積でもない。

「自分の体」「自分の性格」「自分のこれまでの体験の記憶」など、
「自分の」と冠しうる全てのものは、自分に属するもので、自分そのものではない。
つまりそれは、自分の属性であり、「個体の個性」。
それは対象であって、主体ではない。
本当の自分とは、主体であるところの、意識。
情報の「鋳型」を全て取り払えば、それは「もともとの意識」に行き着くもの。

「自分の意識」という言い方もある。
ただ、これは正しくは、意識の活動の軌跡を、対象化したもの。
それを対象化している「自分」の方が、実際の意識。
正しくは、今動いている意識そのものは、対象化できないもの。

本当の自分である意識は、
自分の体や、能力や人格、これまでの境遇といった「自分の個性」を、
仮想の他者に見立てることができる。
そして、それらに対し、肯定や、感謝や、愛の思いをもつこともできる。
そこでは、勝利感が生まれ、個体としての好調さや一体感が高まることになる。
一方、反対の思いをもつこともできる。
そこでは自ずと、反対の結果が生じることになる。

もっとも、
「自分の個性」を他者に見立てて、肯定し、感謝し、愛した状況は、
「自分の個性」を自分そのものと捉えつつ、喜びを大きく保っている状況と、
結局等しいものになる。



‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥
 あとがき
ここでは、勝利感と敗北感という構図を通して、いくつかの事柄を見てみました。
(「勝利感=他者との関わりにおける基本的な喜び」と読み替えた方が、
 語感に抵抗がないかもしれません。)
たとえば、偏屈な老人が、純真な子供から受ける肯定や愛によって、人間性を取り戻していく
といった物語も、こうした構図から見れば、より明確に味わうことができます。
次号では、「他者との関わりにおける基本的な苦しみ=敗北感」の解消について考察します。
 それではまた。
‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

発行者 哲楽人  週2回発行(月曜・金曜)
バックナンバー掲載サイト http://www.yorokobi.info

前号へ / 次号へ