「喜びの詩」 第28号 2008年7月18日
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目次
□ 世界の成り立ちについて
□ 人のありようについて
□ 生きることについて
□ 自分の生を、より大きな喜びにすることについて
■ 他者との関わりを、より大きな喜びにすることについて
○ 他者との間の感情と体験
● 悪と罪
○ 勝利感と敗北感
○ 敗北感の解消
○ 他者への典型的な行い
□ 社会との関わりを、より大きな喜びにすることについて
□ いくつかのものごとについて
(本号に掲載するもの:■●)
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─────── 悪と罪
他者を苦しめる要素である、悪を結集させた存在として、悪魔というものを考えてみる。
悪魔が他者を苦しめるとき、その行いを駆り立てるのは、
その行いが与える快感。つまり自分の喜びのためにそれを行う。
喜びへ向かう方向性が、悪魔にもあるなら、
それはさらに大きな喜びへと、悪魔を駆り立てずにはいない。
一方、全ての生に働く「収支平衡作用」は、
他者にどんな行いをすれば大きな喜びが返ってくるかを、悪魔にも教えずにはいない。
すると必然的に、悪魔は、他者を喜ばす善をなすに至る。
つまり、喜びを求める時点で、その主体は本質的に悪魔ではありえない。
ゆえに、悪魔というものは、矛盾して成り立たず、存在しえないもの。
結局、悪を生み出す、悪の根源なるものがある訳ではない。
悪は単に、自分の喜びを求める思いと、様々な無知から生まれてくる。
たとえば、苦しむ他者の身になってみることができず、他者の苦しみを知らない。
他者を苦しめなくとも喜びを得ていける能力が、自分の中に潜在することを知らない。
他者を苦しめて得る喜びよりも、もっと質の高い、大きな喜びがあることを知らない。
他者に与えた苦しみが、「収支平衡作用」によって、自分に返ってくることを知らない。
自分も他者も、「もともとの意識」が「演じ」たもの、つまり同じ命をもつものだと知らない。
悪の行いをすれば、
そこで得た目先の喜びを、打ち消してあまりある、
他者を苦しめた分の苦しみが、「収支平衡作用」によってもたらされる。よって、
人が喜びを望むものである以上、最終的に、善の行いが選択されていくことになる。
悪の思いを発すれば、
それは、様々な他者の、反対方向の思い、同方向の思い、強い思い、弱い思いと、
打ち消し合い、束になって、残った方向が、「具現化作用」によって実現される。よって、
全ての人が喜びを望むものである以上、最終的に、善の思いが実現されていくことになる。
つまり悪は、一時的に成り立っても、長続きするものではない。
複数の他者が成す社会において、悪は、その中心の座を占め続けることはできない。
結局「因果作用」は、他者の間に善を拡大させるためにも、理にかなったもので、
やはり喜びという目的にかなったもの。
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自分の悪行を、悪かったと自覚するとき、それは認識の上で、罪というものに変わる。
それは、罪悪感が生じるということ。
罪悪感は主に苦しみを含み、いくつかの感情を伴いうる。
それは、後悔という悲しみや、
自分を責めて傷つけようとする、破壊的な怒り、
そして二度とこのようなことをしないと誓う、建設的な怒り、
さらには、苦しみを未来に投影するかたちで生じる、負の報いへの恐れ。
罪悪感は、苦しみの一つとして、解消していけるもの。
それは生にとっての主題ではなく、過大に位置づけるべきものではない。
過去にどんな罪が刻まれたとしても、
善を刻んでいく無限の展開の前では、それは打ち消される。
また、罪が刻まれるのは、あくまで表現という情報の上であり、
本当の自分である意識そのものは、「けがれる」ことはない。
「もともとの意識」は、全ての表現を超えて「完全な」まま。
つまり人は、自分が思えば、いつでも過去の自分から生まれ変われる。
「完全な」存在を神とするなら、神から許されない罪というものもない。
赤子がどんなに無礼なことをしようと、大人はそれを無条件に許す。
それは、ものごとを判断する能力がまだ低く、仕方ないことゆえ。
同様に、人がどんな罪を犯そうと、神はそれを無条件に許す。
「完全な」神から人を見れば、そこには大人と赤子以上の、果てしない差があるゆえ。
ただ、赤子にも、成長につれてしつけが与えられるように、
人にも、しつけにあたるものが与えられている。それは、「収支平衡作用」。
他者に善いことをすれば御褒美が、他者に悪いことをすれば御仕置きが、
自動的にもたらされる仕組み。
その仕組みとどうつき合うかは当人次第。
ひどい御仕置きを受けても、それは神が怒って許さないからでなく、自らが選んだこと。
そもそも、しつけとは、愛の上に成り立つもの。
それは、当人が自分で大きな喜びを得ていけるように、方向づけるためのもの。
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一見救いようのないような、極悪な人物があったとしても、
それは悪魔が「演じ」た訳でなく、「完全」である「もともとの意識」が「演じ」たもの。
とてもそう見えないとしても、結局、
一つの微生物に至るまでの全ての生は、「もともとの意識」が「演じ」たもの。
そもそも、そのように全くなりきってしまうことが、「個体の個性」に沿うということ。
極悪な人物の「意識の属性」も、ふつうの人のそれと、根本的には変わらない。
そこにあるのは、誤った選択によって、自分の個性を負の方向に偏らせ、
その個性になりきった中で、さらに誤りを重ねていった、負の循環の結果。
つまりそれは、誰もがいくらかもっている負の要素が拡大し、強固な「鋳型」になったもの。
それは、苦しみを選べる自由のもとで、人が踏み込んでしまった、迷い道の深さを示すもの。
それぞれになりきっている、千差万別な現れ方にとらわれず、
その奥のありようを思うことができれば、誰にも正の要素は見いだされる。
少なくとも、喜びへ向かう方向性は、誰もがもつもの。
それをたどって、より大きな喜びへ向かっていけば、必ず救いようはあるもの。
どんな「意識の属性」も、やはり「完全」へと回帰する、無限の過程の内にある。
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あとがき
ここでは、悪(=他者を苦しめること)というものの本質を考察しました。
つきつめれば悪魔というものは存在しえない、という論理は、意外と単純なものですが、
こうした視点も、世界をより肯定的に眺めるのに有効だと思います。
次号では、他者があってこそ成り立つ喜びと苦しみ、「勝利感と敗北感」について考えます。
それではまた。
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発行者 哲楽人 週2回発行(月曜・金曜)
バックナンバー掲載サイト http://www.yorokobi.info
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