「喜びの詩」   第23号 2008年6月23日

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目次

□ 世界の成り立ちについて
□ 人のありようについて
□ 生きることについて
■ 自分の生を、より大きな喜びにすることについて
   ○ 感情の循環
   ○ 体験の循環
   ● 完全さと不完全さ
   ○ 苦しみの成り立ち
   ○ 苦しみの解消
□ 他者との関わりを、より大きな喜びにすることについて
□ 社会との関わりを、より大きな喜びにすることについて
□ いくつかのものごとについて

(本号に掲載するもの:■●)
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─────── 完全さと不完全さ


原初の主体である「もともとの意識」が、もし「不完全な」存在なら、
そこに、負の要素や、限定性が、もともと潜在していたことになる。
つまり、表現以前に、苦しみの方向性や、有限の可能性が、もともとあったことになる。

もし、主体の可能性が有限なら、
そこから生み出される表現は、有限の展開にとどまることになる。
確かに人は、限られた時間を生き、有限の展開しか見届けられない。
しかし、たとえば物質の世界を眺めてみて、
その広大さと、緻密さと、常に法則に沿った確かさを味わうとき、
この世界を成り立たせている力は、限りあるものとは思い難い。
むしろその力は、限りないものと見るのが自然。
それは、今日働いた物理法則が、明日も同じように働くと見るのが、自然なのと同じ。
それはつまり、いつまでも限りなく働くものと見なすということ。
この力のもとで、無限の展開が生み出されうるとすれば、
やはりそこにある可能性は無限であることになる。

もし、活動の方向性が苦しみなら、
その主体は、喜びを望まず、純粋に苦しみを望むことになる。
しかし、望みを叶えることは、喜びになる。
苦しみを望んでも、それを叶えようとすること自体が、苦しみの方向性に反することになる。
よって、その主体は何もなしえなくなる。つまり主体性を失う。
結局、純粋に苦しみの方向性をもった主体というものは成り立たず、存在しえない。
実際にありうる主体性とは、喜びへ向かって活動するもの。
主体が主体として成り立つには、結局、喜びの方向性は欠かせない。
やはり活動の方向性は喜びであることになる。

仮に、「もともとの意識」が、苦しみへ向かう存在として成り立っていたら、
生命体も、相似的に苦しみへ向かうようにできていたはず。
しかし、あらゆる生命体は、現に喜びを求めている。
結局、「もともとの意識」も、喜びへ向かっていることになる。

仮に、原初に潜在していたのが負の要素なら、
「負の要素の欠乏や無」をかたちにしたものが、正の要素ということになる。
二つの概念の組みが、一つの系統を成すものなら、
もともと一方の概念があって、その展開としてもう一方が生まれるのは、もっともなこと。
それは、より上位の「有」の表現から、「無」の表現が展開する、「有、無」の展開。
ただ、どちらが本当の「有」の表現かは、それぞれの概念の中に表れている。

たとえば、もともと「闇」という概念だけがあったなら、
それを展開させた「闇の無」の表現として、「光」という概念をつくり出せはしない。
「闇」という主題の引き立て役として、二次的に「光」を生み出せはしない。

もともと「光」という概念があってこそ、
それを展開させた「光の無」の表現として、「闇」という概念をつくり出せる。
「光」という主題の引き立て役として、二次的に「闇」を生み出せる。

「光」と「闇」が並ぶとき、互いの増減を支配するのは「光」の方。
「光」の増減を受けて、「闇」は受動的に増減するのみ。

つまり、より上位の表現は、「光」の方。
「光」が「有」の表現で、「闇」が「無」の表現。
「光、闇」と同じことが、「熱、冷」「動、静」にあてはまり、
「喜び、苦しみ」にもあてはまる。
結局、原初に潜在していたのは、正の要素の方になる。

よって、「もともとの意識」に立ち返れば、
そこに、正の要素と、無限性が、もともと潜在していたことになる。
つまり、表現以前に、喜びの方向性と、無限の可能性が、もともとあったことになる。
言い換えれば、
そこに、かたちとしての「完全さ」が潜在していた。
つまり、かたちのない「完全さ」があった。
やはり「もともとの意識」は、「完全な」存在ということになる。

人は誰しも、喜びへ向かうもの。また、常に何らかの可能性を拓こうとするもの。
どんな小さな子供にも見いだせる、これらの資質は、つまり「完全さ」の片鱗と言える。

─────

身の周りの状況を、ある場面で見れば、そこに何かしらの「不完全さ」を見いだしうる。
つまり何かしらの、負の要素や、限定性を見いだしうる。
「完全な」存在によってこの世界がつくられたのだとしたら、
それは一見、おかしなことにも思える。
そこに「完全さ」のみが見いだされるべきではないか、とも思えてくる。

しかし、そこに「不完全さ」が見いだされるのは、おかしなことではない。
「不完全さ」は、この世界をつくるにあたっての、不手際から来るものではない。

もしこの世界から本当に「不完全さ」を消し去れば、
負の要素がなくなることで、正の要素は輪郭を失い、ありありとしたものでなくなり、
限定性がなくなることで、表現は特定のかたちを失い、表現以前の状態に戻る。
つまり、「不完全さ」のない「完全な状態」には、表現そのものが成り立たない。
それはちょうど、全く均衡した状態には、運動が成り立たないようなもの。
また、全く幸福な状態には、物語が成り立たないようなもの。
「不完全さ」を含んでこそ、ありありとした個々の表現は成り立つ。
それを承知の上で、この世界は表現されている。

しかし、この世界は単に「不完全」なだけで尽くされるものではない。
この世界を、ある場面だけでなく、あらゆる場面の全体として見ることで、
そこに「完全さ」が見いだされる。

たとえば、地球上の自然を、ある場面で見れば、
ある葉っぱは、枯れていたり、虫に食われていたりして、「不完全な」姿かもしれない。
しかし、四季の循環や、生態系の循環、進化の全体として見れば、自然は「完全」だとわかる。
つまり、枯れている葉も、虫に食われている葉も、「完全」の内にある。
この視点に立つとき、それらの葉は、そのままで「完全な」ものと見なせる。

たとえば、今の自分の人生が、物語としてつまらないものに思えても、
それはより大きな物語の中の、一つの章にあたるもの。
生を繰り返していく無限の展開を、全体として見れば、それは「完全な」物語を成す。
様々な味わいの章を含んでこそ、それは味わい深い物語になる。
つまり、どんな章も、「完全な」物語の中に、有意義な位置づけを与えられる。
この視点に立つとき、自分の人生は、そのままで「完全な」ものと見なせる。

たとえば、今の自分の能力や人格が、たとえ劣ったものに思えても、
それらが進歩していく無限の展開を、全体として見れば、それは「完全な」能力と人格を成す。
つまり、今の自分の「意識の属性」も、「完全」の内にある。
この視点に立つとき、自分は、そのままで「完全な」存在と見なせる。

また、今の自分を「演じ」ている本当の自分、つまり「もともとの意識」は、
時間と空間の外からすれば、「完全な状態」のまま。
この視点に立つときも、自分は、そのままで「完全な」存在と見なせる。

つまり、今のありようだけを見れば「不完全な」ものも、
時間の枠組みを超えて全体を見れば、そのままで「完全な」ものと見なせる。
この考え方は、未来にわたる可能性を、今認めるもの。
それを認め、思うとき、そこに「具現化作用」が働く。
そして、思った分の可能性が、より時間を早めて実現されてくる。
現状が、より正の要素を集めたものになり、より「完全さ」を映したものになっていく。

「完全さ」が成り立つのは、表現が正の方向へ、無限に展開する場合。
そして無限とは、終わりがないということ。
つまり、その展開の中に、「完全さ」を満たした具体的な終着点が、訪れる訳ではない。
それでも、その展開の全体として、「完全さ」が成り立つことに変わりない。
とすれば、そこに「完全さ」を認めるのは、むしろいつでも構わないことになる。
むしろどの時点にも、それを認める資格があることになる。
ゆえに今という時点にも、やはりその資格があることになる。

ものごとは、
局所的に見れば、悲劇的に映っても、
大局的に見れば、喜劇的に映るもの。
大きな構図で見るほど、苦しみの深刻さは弱まり、喜びの明朗さが強まるもの。
決してこの逆にはならない。
このことが示すのは、
結局全ての表現が、喜びへ向けた壮大な「遊び」であるということと、
局所的には負の要素や限定性が目立っても、
大局的には正の要素や無限性が勝るということ。
つまり、ある場面で「不完全さ」が目立っても、
より大きな展開では「完全さ」が勝るということ。

どんなに大きな数も、無限大と比べれば、比率として全くの「0」になる。
それと同じく、
どんなに「不完全な」表現があっても、正の方向へ無限に展開する表現の前では、
全く取るに足らないものになり、打ち消される。
つまり、そこにまぎれもなく、「完全さ」が成り立つ。
「不完全さ」を伴いつつも、表現というものがなされたのは、
こうして全体として、やはり「完全さ」が成り立つゆえ。



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 あとがき
ここでは、完全さと不完全さの単純な対立を超える考え方を提示しました。
(内容としては、第1号での考察をおさらいしています。
 「不完全さ」が「完全さ」に転化する、ということを考えるとき、
 多角形が円になる、というたとえが示唆を与えてくれます。)
こうした視点をもつと、世界をより肯定的に眺められるようになると思います。
次号では、苦しみというものの成り立ちについて考えます。
 それではまた。
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発行者 哲楽人  週2回発行(月曜・金曜)
バックナンバー掲載サイト http://www.yorokobi.info

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