「喜びの詩」   第19号 2008年6月9日

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目次

□ 世界の成り立ちについて
□ 人のありようについて
■ 生きることについて
   ○ 生きる目的
   ○ 喜びの最大化
   ○ 成長と善行
   ● 刹那主義と達成主義 (○前半/●後半)
   ● 利己主義と利他主義
□ 自分の生を、より大きな喜びにすることについて
□ 他者との関わりを、より大きな喜びにすることについて
□ 社会との関わりを、より大きな喜びにすることについて
□ いくつかのものごとについて

(本号に掲載するもの:■●)
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人はしばしば、長期間修練をして、ある一日の達成を目指すことがある。
その際、どのような姿勢をとるかによって、多くの違いが生じてくる。

「達成主義」のもとでは、達成に唯一の価値を見いだすことになる。
ひたすら苦しい修練をし、犠牲的な日々を送る。
それで達成ができなければ、それまでの日々は、およそ報われないものになる。
ゆえに、目指す当日には、長期の苦しみが報われるかどうかを賭けて臨むことになる。
そのことは、実力を出すにあたって、むしろ余分な負担になりうる。
そして、達成ができても、そこで得る喜びは、期待が膨らみすぎた分、期待外れになりうる。

達成の瞬間の喜びは、相応に大きいもの。
ただ、長期の苦しみを埋め合わせるだけの喜びが、その一瞬に全て得られるとは限らない。
また、そこでの喜びが、修練の期間と同じだけ続くとも限らない。
長期にわたる念願の達成であっても、その喜びはおよそ、その一日を祝福するもの。

何かの理想的な達成は、達成するまでは魅力あることでも、
いざ達成してしまうと、その喜びも永続するものではない。
常に新たな過程が続いていくもの、それが生というもの。

「過程主義」のもとでは、達成に至る過程そのものに価値を見いだすことになる。
苦しい修練に適度な喜びを織り交ぜるか、修練自体を喜びと化し、満ち足りた日々を送る。
それで達成ができずとも、それまでの日々は、報われないものにはならない。
ゆえに、目指す当日には、その一日の喜びを賭けて臨めば済む。
そのことは、実力を出すにあたって、むしろ最適な状況をつくりうる。
そして、達成ができれば、そこで得る喜びは、期待以上のものになりうる。

日々を苦しみと感じるより、喜びと感じている方が、修練の質と量は向上しうる。
達成の成否が、修練の質と量や、当日に発揮できる能力、
それに運を加えたもので決まるなら、
やはり日々を喜びにすることが有効になる。

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「まずは割り切ってお金を稼ぎ、後は自由に遊んで暮らす」
これは一見、肯定できる生き方のようでも、得られる喜びは意外に小さい。
前半は、お金を得ることを目標にする「達成主義」の生き方で、
後半は、全く享楽的な「刹那主義」の生き方にあたる。

前半で、仕事のやりがいや意義に関係なく働けば、人生の時間を単に犠牲にすることになる。
その人生は、前半が長引くほど悲劇になり、目標の達成に至らなければさらに悲劇になる。
もし、お金を得ることに成功しても、
後半で、ひたすら安易な快楽にふければ、人生の時間を単に浪費することになる。
このような暮らしは、じきに飽きが来て、長くは続けられなくなる。

何ら喜びの刹那を伴わない達成も、
何ら達成の喜びへ向かわない刹那も、
実際、期待するほど大きな喜びはもたらさない。

ゆえに、このような生き方をしてみても、人は往々にして、そこから離れていく。
たとえ遊んで暮らせるだけのお金を得たとしても、それは変わらない。
量の豊かな喜びがあっても、質の高い喜びが欠けていては、人は満足できない。
改めて、やりがいや意義のある仕事に就いたり、何かの能力を磨いていったり、
他者から肯定され、感謝され、愛されることを望み、他者を喜ばせる事業を始めたりする。
つまり、善行を含む何らかの成長、何らかの達成に、自ら進んで向かっていく。

質と量を総合した、より大きな喜びを望む以上、
人の生き方は最終的に、「過程主義」に行き着くことになる。



─────── 利己主義と利他主義


人は他者との間で生きる。
そこで喜びを求めるにあたっては、大きく二つの姿勢がありうる。それは、
自分の喜びを求める、「利己主義」の姿勢と、
他者の喜びを求める、「利他主義」の姿勢。

これらは、純粋なかたちで見れば、互いに極端な姿勢であり、単独では問題がある。
しかし、どちらも否定すべきものでなく、両方の姿勢が必要。
両方を調和させれば、問題の部分を打ち消しながら、有効な部分を活かしうる。
そこに成り立つのが、「利互主義」の姿勢。

「利互主義」とは、自分と他者の全体、つまり互いの喜びを求める姿勢。
他者の喜びを目指しながら、そこに自分の喜びも見いだす姿勢。

いわば、善行の純粋なかたちが、「利他主義」にあたり、
善行の現実的なかたちが、「利互主義」にあたる。

「利己主義」は、喜びの量を指向する、いわば享楽的な生き方。
「利他主義」は、喜びの質を指向する、いわば禁欲的な生き方。
「利互主義」は、喜びの質と量を総合的に指向する、中庸の生き方。

「利己主義」は、いわば「やりたいこと」をやること。
「利他主義」は、いわば「やるべきこと」をやること。
「利互主義」は、「やりたいこと」と「やるべきこと」を、偏らずにやるか、同化すること。
ここで、
「やりたいこと」とは、自分に喜びがもたらされること。
「やるべきこと」とは、自分は苦しくとも、他者に喜びがもたらされること。

「利己主義」は、いわば、自分を肯定し、他者を否定すること。
「利他主義」は、いわば、自分を否定し、他者を肯定すること。
「利互主義」は、いわば、自分と他者を、ともに肯定すること。

「利己主義」の根本の問題は、
他者のことを顧みないゆえ、社会的な生そのものに反してくる点。
「利他主義」の根本の問題は、
他者のことだけを優先する中で、自分が立ちゆかなくなれば悲劇になる点。
よって、
社会的に生きていくには、ある程度「利他主義」的にならざるをえず、
自分が立ちゆくためには、ある程度「利己主義」的にならざるをえない。

自分を立ちゆかせつつ、社会的に生き、「拡張した自分」の喜びを求めていく生き方、
それが「利互主義」にあたる。ここでは、
他者の喜びを追求することが、自分の喜びにつながり、
自分の喜びを追求することが、他者の喜びにつながっていく。
つまり、自分と他者の喜びを、全く別に捉えることはできなくなる。

そもそも大局的に見れば、自分も他者も、同じく「もともとの意識」が「演じ」たもの。
つまりここでは、自分と他者の喜びは、もはや一体のもの。
「利互主義」とは、こうした根本のありように相似したもの。

実際の「利互主義」の姿勢は、「利己主義」と「利他主義」の均衡から生まれる。
しかし、それら二つの間に、静的な中立点が用意されている訳ではない。
どこを中立と捉えるかは、人により、また時により異なる。
進歩の順として、初めは「利己主義」から出発して「利他主義」へと向かい、
その二つの間を循環することで、動的に中立を成していく。
循環の速さは様々であれ、その循環運動が、実際の「利互主義」を成すことになる。

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一方の人が生き延びるために、他方の人が犠牲にならざるをえないような、
差し迫った状況下では、有効な姿勢は「利互主義」のみ。
両方が自分の生存を主張するのでもなく、両方が生存を譲り合うのでもなく、
総合的に考えて、どちらが生存する方が、生存者自身と、その他の多くの他者に、
より大きな喜びがありうるかを判断し、
それに沿って一方は生存を譲り、他方は生存を受け入れ、
譲る側はそうすることを自分の喜びとし、受け入れる側はそうすることが相手の喜びだと悟る。
これは「利互主義」の行い、つまり愛の行いの、一つの極まったかたちにあたる。



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 あとがき
前号と本号は、違うテーマでありながら、相似した構成になっています。
これは「中庸」という構造が、結局同じであることを示しています。
こうした相似的なかたちの文章は、機械的に書けるように見えますが、
双方の文を調整する必要があり、実は普通の書き方より手間がかかります。
ただ、構造を示すのには有効なので、今後も何度か登場することになります。
次号からは、「自分の生」に的を絞って考察を進めます。
まず初めは、「感情」について掘り下げます。
 それではまた。
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発行者 哲楽人  週2回発行(月曜・金曜)
バックナンバー掲載サイト http://www.yorokobi.info

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