「喜びの詩」   第18号 2008年6月6日

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目次

□ 世界の成り立ちについて
□ 人のありようについて
■ 生きることについて
   ○ 生きる目的
   ○ 喜びの最大化
   ○ 成長と善行
   ● 刹那主義と達成主義 (●前半/○後半)
   ○ 利己主義と利他主義
□ 自分の生を、より大きな喜びにすることについて
□ 他者との関わりを、より大きな喜びにすることについて
□ 社会との関わりを、より大きな喜びにすることについて
□ いくつかのものごとについて

(本号に掲載するもの:■●)
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─────── 刹那主義と達成主義


人は時間の中で生きる。
そこで喜びを求めるにあたっては、大きく二つの姿勢がありうる。それは、
目先の刹那に喜びを求める、「刹那主義」の姿勢と、
将来の達成に喜びを求める、「達成主義」の姿勢。

これらは、純粋なかたちで見れば、互いに極端な姿勢であり、単独では問題がある。
しかし、どちらも否定すべきものでなく、両方の姿勢が必要。
両方を調和させれば、問題の部分を打ち消しながら、有効な部分を活かしうる。
そこに成り立つのが、「過程主義」の姿勢。

「過程主義」とは、達成へ向かう刹那、つまり過程に喜びを求める姿勢。
達成の喜びを目指しながら、そこに刹那の喜びも見いだす姿勢。

いわば、成長の純粋なかたちが、「達成主義」にあたり、
成長の現実的なかたちが、「過程主義」にあたる。

「過程主義」では、仮に達成に至らなくとも、それぞれの刹那で喜びが成り立つ。
しかしこれは、達成を軽んじたり、達成へ向かう力を削いだりするものではない。
あくまで達成に向かいながらも、その過程を、
単にやり過ごすべき時間にせず、積極的に味わうべき時間にするもの。
そして達成に至れば、その大きな喜びも、一つの刹那として味わうもの。

「刹那主義」は、喜びの量を指向する、いわば享楽的な生き方。
「達成主義」は、喜びの質を指向する、いわば禁欲的な生き方。
「過程主義」は、喜びの質と量を総合的に指向する、中庸の生き方。

「刹那主義」は、いわば「やりたいこと」をやること。
「達成主義」は、いわば「やるべきこと」をやること。
「過程主義」は、「やりたいこと」と「やるべきこと」を、偏らずにやるか、同化すること。
ここで、
「やりたいこと」とは、今、目先の喜びがもたらされること。
「やるべきこと」とは、今、目先の苦しみはあっても、将来に喜びがもたらされること。

「偏らずにやる」というのは、あまり長くない期間の中に、両方を織り交ぜること。
たとえば、一日に楽しみと苦労を織り交ぜること。
「同化する」というのは、「やりたいこと」を「やるべきこと」として設定すること、
または、「やるべきこと」を「やりたいこと」として捉えること。
たとえば、好きなことを仕事にすること、または、義務的な仕事に楽しみを見いだすこと。
「偏らずにやる」周期を短くすれば、それは「同化する」ことに近づいていく。

往々にして、
仕事がもたらす喜びは、質が高い一方、量の豊かさに欠け、
遊びがもたらす喜びは、量が豊かな一方、質の高さに欠ける。
仕事ばかりでは遊びたくなり、遊んでばかりでは仕事がしたくなるのは、
人が喜びを最大化するにあたって、質と量の両方を求めることの証し。
仕事と遊びを偏らずにやれば、その両方が交互に満たされる。また、
仕事と遊びを同化すれば、その両方が同時に満たされる。

「刹那主義」は、今を単独で活かす。それは未来への視点を欠いた今。
「達成主義」は、今を他の時に従わせる。それは未来への視点で占められた今。
「過程主義」は、今を他の時に従わせつつ、単独でも活かす。それは未来への視点を含んだ今。

「刹那主義」は、いわば、今を肯定し、未来を否定すること。
「達成主義」は、いわば、今を否定し、未来を肯定すること。
「過程主義」は、いわば、今と未来を、ともに肯定すること。

「刹那主義」の根本の問題は、
未来のことを顧みないゆえ、生の維持そのものに反してくる点。
「達成主義」の根本の問題は、
未来のことだけを優先する中で、生の期限が訪れれば悲劇になる点。
よって、
生を維持するには、ある程度「達成主義」的にならざるをえず、
生の期限を思えば、ある程度「刹那主義」的にならざるをえない。

生の維持を図りつつ、いつ生の期限が訪れても、人生を喜びにしうる生き方、
それが「過程主義」にあたる。ここでは、
もし生が維持されれば、刹那を達成へと向かわせておいたことで、達成の喜びが得られる。
もし生の期限が訪れても、それまでの過程を喜びとしておいたことで、人生は喜びを保てる。

人生には、期限がある。
その終わりは、不意にであれ、寿命としてであれ、いつか訪れる。
つきつめれば、地球や宇宙にも、生物の「舞台」としての有効期限がある。
その終わりには、物質の世界に刻んだあらゆる達成的な行いが、無に帰する。
これらを前提にすれば、あらゆる「達成主義」が、一見無意味なものにも思えてくる。

しかし、全くの「刹那主義」に走れば、小さな喜びしか得られず、生そのものも維持し難い。
全体として限られた時間であっても、その中で「達成主義」を含むことで、
喜びを構築し、膨らまし、より大きなものにできる。
たとえ限りある「舞台」であっても、そこで大きな喜びを体験することが、結局、生の目的。

そもそも大局的に見れば、「もともとの意識」が表現をなしたのも、
「完全」へ向かう無限の過程を味わう、その喜びが目的。
「過程主義」とは、こうした根本のありように相似したもの。

実際の「過程主義」の姿勢は、「刹那主義」と「達成主義」の均衡から生まれる。
しかし、それら二つの間に、静的な中立点が用意されている訳ではない。
どこを中立と捉えるかは、人により、また時により異なる。
進歩の順として、初めは「刹那主義」から出発して、「達成主義」へと向かい、
その二つの間を循環することで、動的に中立を成していく。
循環の速さは様々であれ、その循環運動が、実際の「過程主義」を成すことになる。

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成長には、目先の苦しみが伴うのが必然。
その苦しみを、苦しみとだけ捉え、日常をそれだけで終始させれば、
その過程に喜びが欠乏し、成長を続けるのが難しくなる。
その日常に、喜びを見いだすか、別な喜びを織り交ぜるかして、
その過程に喜びを含むことで、成長は持続できるものになる。

単なる「達成主義」のもとでは、喜びの量の欠乏によって、
人は達成を目指すことに嫌気がさしたり、達成への重圧を自ら抱えたりもする。
このことは、達成に負の影響を及ぼしうる。
よって、何としても達成したいことがあれば、
その過程を、むしろ何としても喜べるものにする必要がある。

喜びにつながる正のものごとであれ、
苦しみにつながる負のものごとであれ、
過去のものごとへの強い思いは、もはや実現しえないため、苦しみをもたらす。
未来のものごとへの強い思いは、
それが正のものごとなら、実現することで、喜びをもたらし、
それが負のものごとなら、実現することで、苦しみをもたらす。ただ、
未来の正のものごとへの思いも、「達成主義」に走りすぎると、相応の苦しみをもたらしうる。
こうした、苦しみをもたらすような強い思いが、「執着」にあたる。

執着を断つとは、全ての目標や、強い思いを捨て去ることではない。
それでは単なる「刹那主義」になり、小さな喜びしか得られない。
執着を断つとは、甲斐のない目標や、一辺倒な「達成主義」を手放すこと。
つまり、未来の正のものごとへの強い思いはもちながら、「過程主義」に立つこと。
そこでは、仮に目標を達成できなくとも、大きな苦しみに陥りはしない。
執着を断てば、確かに、多くの苦しみから開放されることになる。

─────

山火事が一軒家を取り囲み、どうすることもできない中、
一人暮らしの老婆が行なったことは、いつも通り夕食の準備をすることだった。
火の回りが速ければ、夕食をとれるかどうかわからないのに、
人は、その小さな達成へ向かう刹那を、つまり過程を生きずにはいられなかった。
この行いは、無駄なものではなかった。
準備をすることで、心を落ち着けることができた。
限られた時間でも、平安を得ることができた。
つまり、この行いの目的は、単に食事をとることでなく、
準備という過程の、静かな喜びそのものにあった。

死が迫っても、人は刹那的にのみ生きるとは限らない。
結局、最も安定した喜びを与えるのが、何かを目指す過程というもの。
結局、小さな過程の積み重ねが、生というもの。
目指す出来事の大小を問わず、何かの過程にある生は、常に生き生きしたものになる。



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 あとがき
「刹那」とは「瞬間」という意味です。
ここでは、いわば「中庸」というものを深く掘り下げました。
次号では、引き続き同じテーマでいつくかの事例を取り上げた後、
「利己主義」と「利他主義」のバランスについて考察します。
 それではまた。
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発行者 哲楽人  週2回発行(月曜・金曜)
バックナンバー掲載サイト http://www.yorokobi.info

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