「喜びの詩」 第14号 2008年5月23日
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目次
□ 世界の成り立ちについて
■ 人のありようについて
○ 体との連動
○ 眠りと死
○ 逸脱現象
○ 可能性
○ 運命
○ 他者
● 神
□ 生きることについて
□ 自分の生を、より大きな喜びにすることについて
□ 他者との関わりを、より大きな喜びにすることについて
□ 社会との関わりを、より大きな喜びにすることについて
□ いくつかのものごとについて
(本号に掲載するもの:■●)
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─────── 神
人は、意識の自由度が高いゆえに、ものごとを深く考えるようになった。
それによって、相応の疑問や悩みを抱く余地をもった。
しかし同時に、それらを解決していく術も得た。
深く考えることで、人は、世界の成り立ちを問い、悩みを解消するよりどころを問い、
やがて、自分を超えた上位の働きや存在についても、思いを馳せるようになった。
そしてそれを、神と呼び、崇めるようになった。
多くの集団に共通して、神への信仰が生まれた。
人は、自分ではどうすることもできないような、差し迫った状況に出会うとき、
往々にして、思いの中で、とっさに助けを求めるもの。
その思いが向けられる先とは、
現状をどうにかできるかもしれない存在、つまり、自分を超えた上位の存在。
人がこうしたふるまいを、ごく自然に起こすのは、
神の存在というものを、直感的に認めているゆえ。
神とは、つまるところ「上(かみ)」の存在。
それは、自分を超えた、上位の働きや存在。
自分よりも高い、能力や人格をもった存在。
今の自分ではその全貌を捉えられず、その働きを代行しえない存在。
今の自分が想像しうる、最もすばらしい存在よりも、さらにすばらしい存在。
自分の生という体験が、全て自力で成り立つものでない以上、
そこに何らかの神が存在することになる。
つまり、自分の生を成り立たせる、上位の働きが存在することになる。
少なくとも、全ての人にとって、自分の親が、まず最初の神を成すもの。
何を神と見るかは、様々ありうる。
自分より能力や人格が高い、人や生命体を、神と見る。
驚嘆すべきつくりに満ちた、自然そのものを、神と見る。
天空にあって、地球に恵みを与え続ける太陽を、神と見る。
宇宙で最初の、最大限の自由度をもった生命体を、神と見る。
全てをよいように取り計らう、想像を超えた「自動の働き」を、神と見る。
あらゆる限定的なかたちを超えた、「完全な状態」にある「もともとの意識」を、神と見る。
何を神と見るかは、人によって異なる。
同じものを神と見ていても、その捉えようは、やはり人によって異なる。
自分が想像しうる最もすばらしい存在、
そこから自分にとっての神のかたちが設定される。
それは結局、自分の能力と人格を反映したもの。ゆえに、
その神のかたちを超える内容については、そのすばらしさを捉えきれない。
それを捉えられるようになることは、つまり、
自分にとっての神のかたちが進歩することにあたる。
もし、ある存在について、
自分がその全貌を捉えて、その働きを代行できるまでになったら、
その存在は、自分にとっては神でなくなり、
神のかたちは、少なくともそれ以上に進歩することになる。
神は常に自分より上位の存在として設定される以上、
神の全貌を捉えることは、できないままであり続ける。
できることは、神のかたちを、進歩させていくことのみ。
それは、自分の能力と人格を高めていくことと一致する。
神を思うことは、人にとって有益なこと。たとえば、
自分より上位のよりどころをもつことで、安心が得られる。
自分より上位の力を助けに感じることで、勇気が得られる。
自分より上位の他者の目を思うことで、自制心が得られる。
自分より上位の働きを忘れないことで、謙虚さが得られる。
自分より上位の能力を想定することで、向上心が得られる。
神は常に、人より上位の存在であり続ける。ゆえに、
神を思うことは、人にとって、潜在する力を汲み出すための、尽きることのない源泉になる。
このことは、人の歴史や遺構の中に見てとれる。
神を思う中でなされた、創作、発見、社会的行動、
これらは、自分を超越した存在を念頭に置くことによって、
まさに超越的な、創造力、忍耐力、精神力などが、引き出された証し。
自分より上位の存在を思うか思わないかで、人としてなせることに、大きな違いが生じてくる。
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自分の意識は、つまるところ、自由度が制限された、「もともとの意識」。
そのことを思うのは、日常では容易ではない。
それは、目のあたりにする自分の現状が、どうしても「不完全さ」を含むゆえ。
また、そもそも、今の個体になりきるように、認識が制限されているゆえ。
一方、「もともとの意識」を、他者として象徴化すること、
つまり神として思うことは、日常でも難しくはない。
自分とは別の存在として見る方が、そこに理想を描きやすくなる。
かたちのない「もともとの意識」を、神と見るとき、
そこに必然的に、自分が考えうる最もすばらしいかたちがあてはめられる。
そして、何を神と見るにしても、
それは「もともとの意識」が「演じ」たものゆえ、
それは結局、「もともとの意識」に何らかのかたちをあてはめたものにあたる。
神に助けを求め、それがもたらされるとき、その経路は、
自分の奥から、助けとなる力や考えが湧いてくるか、
他者を通じて、具体的な助けが与えられるか。
いずれの経路であれ、その源は、「もともとの意識」。
自分の奥にあるのも、他者を「演じ」るのも、やはり同じ「もともとの意識」。
神を思い、有益さを得ることで、人は神に感謝を捧げる。
感謝とは、自分の喜びの思いを、恩のある相手に向けたもの。ゆえに、
「もともとの意識」に感謝するということは、「もともとの意識」に喜びの思いを向けること。
つまり、人が神に感謝するということは、「もともとの意識」が喜ぶということに等しくなる。
これも結局、「もともとの意識」の目的にかなった、一つの状態。
「もともとの意識」は、
いわば世界を創造した神であり、かつ今、生を体験している当事者。
「舞台」を生み出した神であり、かつ今、「舞」を生み出している「舞手」。
こうした二つのありようが両立する存在、それが結局、「もともとの意識」。
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人が、自分にとっての神のかたちを進歩させていくとき、そこに「完全さ」が想定されてくる。
「完全さ」とは、すばらしいと考えられる、あらゆる特性が結集したもの。
その特性は、たとえば、真、美、賢、明、強、健、愛、善、義、自由、など。
これらは結局、喜びにつながるもの。つまり正の要素。
よって「完全さ」とは、正の要素が無限に結集したものにあたる。
いわば「完全さ」とは、喜びと無限を掛け合わせたものにあたる。
つまり、喜びの方向性と、無限の可能性があるところに、「完全さ」は成り立つことになる。
人がものごとを問うとき、
それ以上問うことのできないものがいくつかある。
人が実在を問うとき、
捉えられる全ての対象は、つきつめれば、その実在を疑える、つまり情報の表現でありうる。
ただ、それを捉え、問うている主体、つまり情報を入出力する意識は、その実在を疑えない。
人があらゆる活動の目的を問うとき、
何かをするのは、つきつめれば、喜びのためと答えられる。
ただ、何のために喜ぶのかと問えば、喜びたいからとしか答えようがない。
人があらゆる対象の由来を問うとき、
限りなく生まれる対象は、つきつめれば、無限の可能性から生まれると答えられる。
ただ、無限の可能性は何から生まれるかと問えば、無限の可能性としか答えようがない。
意識と、喜びの方向性と、無限の可能性、
これらはつまり、人がそれ以上問うことのできないもの。
人が世界の成り立ちを問うとき、
それ以上問うことのできないものから出発するのは、自然なこと。
だとすれば、
「まず初めに、意識と、喜びの方向性と、無限の可能性があった」
「まず初めに、意識があって、そこに完全さがあった」
「まず初めに、完全な神があった」
こう見るのは、自然なことになる。
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あとがき
ここでは、「神」というものを、より汎用性のあるかたちで定義しました。
ちなみに、「存在」(=有るもの)と対になるのは、「非存在」(=無いもの)ですが、
「実在」(=本当に有るもの)に対になるのは、「非実在」という言葉よりも、
「情報の表現」(=有るように見えて本当は無いもの)が適当と思われます。
(「非実在」という言葉で考え出すと、「非存在」と同化して混乱しがちです。)
本号の末尾の内容は、冒頭の第1号に還っていくかたちになっていますが、
ここで「世界」と「人」のありようについて、大まかな考察は終了します。
次号からは、「生きることについて」、まずは生きる目的について考察します。
それではまた。
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発行者 哲楽人 週2回発行(月曜・金曜)
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