「喜びの詩」 第1号 2008年4月7日
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目次
■ 世界の成り立ちについて
● 完全な状態
● 表現し、味わう
○ 設計し、演じる
○ 体験し、補佐する
○ 展開のかたち
○ 因果作用
○ 生の歴史
□ 人のありようについて
□ 生きることについて
□ 自分の生を、より大きな喜びにすることについて
□ 他者との関わりを、より大きな喜びにすることについて
□ 社会との関わりを、より大きな喜びにすることについて
□ いくつかのものごとについて
(本号に掲載するもの:■●)
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─────── 完全な状態
世界がどのように成り立ったのか、想像してみる。
あらゆる世界が始まる前、
そこには、一切の物がなかった。
光もなく、闇もなかった。
時間も空間もなく、概念さえなかった。
かたちを成すあらゆるものがなく、
一切の対象がなかった。
しかし、全くの無ではなかった。
これから世界を成り立たせるための起点があった。
つまり主体が存在していた。
その主体とは何か。
そこにありうるのは、意識。
それは、一切の対象がないところに、ありうる主体。
つまり、意識が存在の全てだった。
その外には何もなく、
「意識の外」自体がなかった。
意識は無為のままで、
限りなく満ち足りていた。
限りなく自由で、目覚めていた。
つまり、
かたちを成すものが何もない中、意識の内には、
未だかたちを成さない、喜びの方向性と、無限の可能性があった。
意識は、かたちのない「完全な状態」にあった。
もしこう仮定したとき、世界はどう描けるだろうか。
─────── 表現し、味わう
意識は、自らの「完全さ」を、全てわかっていた。
しかし、単にわかっているにとどまらず、
それを、いわば試して、確かめてみようと思った。
かたちのないそれを、表現して、味わってみようと思った。
それはひとえに、喜びのため。
それ以外に理由はなかった。
意識には、当然、欠乏感もなければ、義務もなかった。
「完全な」存在にとって、
やるべきことや、やらなければいけないことは、何もなかった。
やることがあるとすれば、それは、遊び、喜ぶことのみ。
試みて確かめる、表現して味わう、
それは遊びの原点であり、喜びの原点。
意識は試みた。
発意すると、対象が生まれた。
その対象とは、概念。つまり情報。
それは、無限の可能性から汲み出されるもの。
または、意が動いた軌跡として残されるもの。
いずれにしても、それは、思いがそのままかたちになること。
こうして意識が、自らの中で、情報を生み出し、取り込むこと、
それが、「表現し、味わう」ということ。
情報の出力と入力、つまり「意」と「識」が、そもそもの意識の働き。
意識による表現は、自ずと、表現のきっかけに沿うことになる。
つまり、喜びの方向性に沿うことになる。
まず意識が生み出す情報は、その正の方向性を引き継いだ、正の要素になる。
意識は、無限の可能性をもつゆえ、正の要素を、無限に生み出せる。
正の要素が無限に結集したものとは、つまるところ「完全さ」。
つまり意識は、かたちとしての「完全さ」を潜在させ、生み出せる状態にあった。
それが、そもそもの、かたちのない「完全な状態」。
意識は、「完全さ」を表現するにあたって、
それをありありとしたものにしようと思った。
それは、そうすることが、より喜びにかなうことゆえ。
ありありとした表現とは、明瞭で、つじつまの合ったもの。
ゆえに、ある要素をありありと表現するには、
「その要素の欠乏や無」にも、何らかのかたちを与えることが必要になる。
たとえば、光という主題をありありと表現するには、
光が欠乏している部分を、光の表現の無のままにせず、
そこに闇というかたちを与える必要がある。
闇によって、光の姿は輪郭を得ることになる。
そして光は、程度や増減を併せもった、より具体的な表現になる。
つまり、主題である正の要素を、ありありと表現するには、
主題と対照的な要素も、併せて表現することが必要になる。
つまり、ありありとした表現には、どうしても負の要素が伴うことになる。
また、表現は、あるかたちをとるもの。
あるかたちをとるというのは、それ以外のかたちを手放すということ。
つまり、個別の表現には、どうしても限定性が伴うことになる。
よって、ありありとした個別の表現には、負の要素と限定性が伴うことになる。
これは、表現というものにどうしてもつきまとう、「不完全さ」。
意識は「完全さ」を、ありありと表現したい。
一方、ありありとした個々の表現は「不完全な」もの。
もし、「不完全さ」を一切受け入れないなら、表現には踏み出せない。
一方、「不完全さ」を受け入れるなら、表現はできても、そのままでは「完全」にならない。
そこで意識は、
負の要素と限定性をもった「不完全な」表現を、
正の方向へ向けながら、無限に展開させることで、
その全体として、「完全さ」を成り立たせることにした。
たとえば、
才能にあふれた「完全な」作曲家が、その才能を表現しようと作曲しても、
現実の個々の曲には、どうしても「不完全さ」が伴ってしまう。
音の高低、強弱、調子の速い遅いなど、常に相対の中で表現せざるをえないゆえ、
現実の曲には、どうしても負の要素が伴ってしまう。
また、あらゆる曲調をつくれても、それぞれに特定の曲調を与えざるをえないゆえ、
個別の曲には、どうしても限定性が伴ってしまう。
しかし、それぞれの曲の味わいをより高め、より多くの曲を作曲していき、
それを無限に続ければ、それは全体として、才能を余さず映す表現になる。
つまり、質的にも量的にも、表現を正の方向へ向けながら、
無限に展開させるなら、それは全体として、「完全な」表現になる。
たとえば、
多角形において、形を整え、角を増やしていき、それを無限に続けると、
それは「完全な」多角形を成す。それは結局、角のない円。
同様に、
表現を、正の方向へ向けて、無限に展開させると、
それは「完全な」表現を成す。それは結局、表現のない「完全な状態」に等しくなる。
展開が無限でも、形が歪み続けたり、角が減り続けたりするなら、多角形は円にならない。
形が整い、角が増えていっても、その展開が有限なら、やはり多角形は円にならない。
一定の方向性と、無限性、その両方があって、多角形は円になる。同様に、
正の方向性と、無限性、その両方があって、表現は「完全な」ものになる。
意識は、ありありとした表現をなすために、
一旦「不完全さ」を受け入れることにした。
しかし、その表現を、正の方向へ無限に展開させることで、
全体として、変わらない「完全さ」を成り立たせた。
これはいわば、「完全な状態」からあえて降りることで、表現の「遊び」をし、
再び「完全な状態」へと向かっていくということ。
こうした活動、つまり「表現し、味わう」ことが、
意識にとって、喜びにかなうものに他ならなかった。
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あとがき
ここでは、宇宙の始まりといったものより「前」の、
宇宙を含んだ“あらゆる存在”の成り立ちを、やや擬人的に考察しています。
ちなみに、「全ては遊び」という見方は、古今東西で散見されますが、
これは最も大局的な視点と言えるのではないでしょうか。
次号のテーマは、「表現」をどう展開させていくか、です。
それではまた。
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発行者 哲楽人 週2回発行(月曜・金曜)
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